2014年8月2日土曜日

セミ・ベジタリアンのその後

1年半ほど前に、肉食をなんとなくやめてみた、という記事を書きました。
詳しくはこちらを参照

ちょっとしたことをきっかけに、自分で殺せないものは食べたくないという気持ちと、以前から勉強していた肉食による食糧問題のことも少しあって、なにか違和感を禁じ得ず、なんとなく肉を食べたくなくなって、そのまま気持ちに身を任せる状態で1年ほどそうして過ごしました。
家では夫のために肉料理を作りつつも自分はあまり食べず、モスバーガーへ行けば海老カツバーガーばかり注文していました。外食で肉が出てきたときは残さずに食べました。


しかし今の私はといえば、また少しずつ自ら肉を食べるようになったのです。
それはなぜかというと、肉食をやめた自分の中にふたたび違和感を感じたから。


普通に肉を食べる家族と住んでいて、または外食で、肉を避けるのは結構むずかしいというのもあるが、それよりも自分がまた肉を食べたいと思うようになったこと、さらに、どこへ行っても肉を避けている自分がなんだかいやになってきたというのが一番の理由。
そもそも私はとりあえず「屠畜」という現実から逃げたかったので、そのために肉食から離れたのかなと今になって思う。


以前の記事には書かれていないけれど、私は最終的に「いきものを屠る」ということを受け入れた上で肉を食べるようになりたいとずっと思っていたので、そんな、肉(=屠畜)と向き合わない自分がそろそろいやになったのかもしれない、、、
(自分でもめんどくさいこといちいち考える人間だなと思うけどとまらない)



そして最終的な目標(?)のため、本も少し読んでみました。

・世界屠畜紀行
・飼い食い 

ともに内澤旬子さんによるルポルタージュです。
世界中の屠畜現場を見に行った記録と、自分で豚を育ててそれをつぶして食べるまでの記録。
一人の著者に絞ると思考が偏りそうだけど、屠畜に関する本がまず少なかったのと、あまり業務的な内容も求めていないし、かと言って涙を誘うようなものは違うだろうとおもったら、読んでみたいような内容がこの二冊だったのです。

内容が良かった悪かったは置いておいて、これらの本は私に、いきものを屠ることについて考える時間をくれました。


私は自分で屠らなくても、その場をちゃんと知っておきたいという気持ちがとても強くて(感謝の気持ちを持つとかそんな安易なものではなく)、でも屠畜場へ見学に行く勇気もなかったのでとりあえず読んでみたのですが、この二冊には屠畜現場のこともかなり詳しく書かれているので、少しだけ見学に行ってみようかなとも思えるようになったのでした。


そんなこともあり、私の心は再び動き始めたわけですが、肉食をやめたときも、今また始めたときも、そのきっかけとなった自分の中の「小さな違和感」に気づいたこと、それに従ったことは自分でもよかったなと思う。
お恥ずかしいけれども、これが私らしい姿だ、、、


私のまわりには肉食をしない人が何人かいて、ヴィーガンからノンミートイーターまでそれぞれだけど、みんなそれぞれに信念を持ってしかししなやかに、時にフレキシブルに生きる姿はとても素敵で憧れてしまう。
その反面、自然食を提唱する「専門家」たちに多く見られる「不自然さ」というのには閉口する(それを信じちゃう人も、残念だけど)。
うまく表現できないけれど、私の実家は田舎で、私が子供の頃くらいまでは、まだふつうに家で飼っている鶏をつぶして食べるようなことが近所でもよく行われていました。夫の実家でも。



「自然な暮らし」「人間らしい暮らし」って、なんだろうか?
原始人みたいな生活?
そこまでいかなかったら、なるべく電気を使わず、地元で採れた野菜を食べ、地球にやさしい洗剤を使うこと?
加工食品は食べないこと?添加物は摂らないこと?
植物性の化粧品を使うこと?
それとも動物を殺さないこと?

なんだかおかしいね。




わたしは毎日、トカゲをたべます。 カリカリもたべます。





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